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東京家庭裁判所 昭和52年(家)8375号 審判

申立人 藤井治(通称)

主文

申立人が左のとおり就籍することを許可する。

本籍 東京都○○区○○×丁目×番

氏名 藤井洋治

出生年月日 昭和一五年以下不詳

父母の氏名 不詳

理由

第一申立の趣旨及び実情

一  申立の趣旨

申立人が、本籍東京都○○区○○×丁目×番×-××××号、父母不詳、筆頭者氏名藤井治又は藤井洋治、生年月日昭和一五年二月二六日として就籍することにつき、許可の審判を求める。

二  申立の実情

1  申立人は、昭和一五年頃朝鮮において日本人を父母として出生し、昭和二一年頃○○○○において母親により中国人に預けられ、父母と生き別れとなつた。

2  申立人は、中国人王浜福夫妻により、中国名王利民として養育されたが、養父母から生い立ちを聞かされ、成長するにつれ、日本人として実父母と再会したいとの思いを断ち難く、二〇歳頃から実父母を捜すことを始めた。

3  昭和四三年頃、申立人は、先に帰国した岡田清一の紹介により、実子藤井治を捜していた北海道在住の高田和乃を知り、同人との間に文通が開始された。高田は、文通の過程で、申立人の送付した資料等から見て申立人は自分の子であると確認し、両名は、昭和四九年に申立人が帰国するまで約七年間にわたり多数の書簡を交換した。

4  申立人は、中国政府並びに日本政府から日本人藤井治と認められ、昭和四九年一二月、藤井治として妻子と共に帰国し、高田和乃と対面した。

5  しかるに高田は、その後一転して申立人は自分の子の藤井治ではないと主張するようになり、昭和五一年九月二〇日秋田家庭裁判所本荘支部に申立人を事件本人とする戸籍訂正許可の審判を求め、同事件は移送により現在東京家庭裁判所に係属している。

6  申立人は現在なお、自分が藤井治であると信じているものであるが、高田の申立が認容されたときは無籍の状態になるので、就籍の許可を求める。

7  申立人は、日本国民たる父及び母の子であり、かつ当時日本領土であつた朝鮮において出生したものであつて申立人が日本国籍を有するものであることは、次の事情ないし資料から明らかである。

第一に、中国政府が厳格な調査の末に申立人を日本人と認定したことが挙げられる。在日中国人を管理する公安局は厳正をもつて鳴る官庁であるが、このような中国官庁が自国民かも知れない人間を日本に送還するはずはない。

第二に、養父及び中国における近隣居住者が証明書を作成しており、これらの証明書には中国政府公証員の認証がなされている。

第三に、申立人は帰国に先立ち詳細な供述書を厚生省に寄せているが、これらの内容からも申立人が日本人であることが認められるはずである。

8  よつて、申立の趣旨記載のとおり就籍許可の審判を求める。

第二当裁判所の判断

一  本件の経過

本件記録中の資料、調査及び証拠調の結果並びに当庁昭和五二年(家)第六五六二号戸籍訂正許可申立事件の記録中の資料によれば、後記1ないし6の事実が認められる。

右の資料等のうち、主なものは次のとおりである。

(1)  本件における主な資料、調査及び審問の結果

関係戸籍の謄本、中国公証員の認証ある王浜福の養子証明と題する文書、同人作成の養子証明と題する書面及び扶養藤井治経過と題する書面、木下幸子、王義、呉建東、陳振忠各作成の証明書、申立人にかかる中学校卒業証書、厚生省援護局から提示を受けた書類(申立人の昭和四一年八月、同年九月及び昭和四二年三月付厚生省あて書簡を含む。)、申立人作成の陳述書(昭和五二年一二月一六日付)、申立人及び参考人堀幸男(厚生省援護局係官)に対する各審問の結果、本件に関する新聞報道記事

(2)  別件戸籍訂正事件記録中の主な資料

釧路家庭裁判所帯広支部調査官の調査報告書、証人小熊隆(警視庁警察官)の証言調書、申立人、高田和乃に対する各審問調書

1 申立人は、幼時に中国人の里子(法律上の養子縁組であるか否かは判然としない。)となつたもので、それ以前のことは申立人自身正確な記憶を有しないものであるが、そのおぼろげな記憶によると、初めは高い木のある部落の赤レンガの家にいたようであり(申立人によれば、後に西方に向かつて移動し○○○○に着いたこと等から考えると、○○○○東方の○○○方面の開拓団ではないかという。)、父と思われる男がいたが、ある日馬に乗つた男が何人か来て、父らしい男は便所に隠れて一時難をのがれたものの結局は連行されてしまつた、その後別の場所の記憶があり、母らしい人が他家に手伝に行つて夜遅く帰り、自分は姉らしい人と一緒にいた(姉は二人いたように思うが、明瞭な記憶でない。)、母が手伝に行つている家に行くと大きなガチョウがいてこわかつた記憶がある、またその後多勢の人と共に朝日を背に夕日を正面に迎えて(西方に向つて)何日か歩いた記憶、荷車の下で寝たような記憶などもあるというのである。

2 申立人はその後○○○○市○○区○○街××号の王浜福(現在の中国文字による表示は「王○○」であるが、本審判においては上記のとおり表示する。)に引きとられたのであるが、王浜福が近時申立人の求めに応じて書き送つてきた書面によると、「(前略)一九四六年一一月私の父が父の知り合いである陳さんと言う人を介して、○○○○市○○○の元日本の学校(当時は日本人難民所)にいた日本人の子供をもらい受けました。その当時私には子供がなかつたのです。そしてその子を養子とし、中国名を王利民と名づけました。最初もらつてきたのは今の藤井治の弟で三歳でした。私の家に着いてから一晩中泣きやまず、二日目も泣き続けたので返しに行きました。その時藤井治の母親は、それでは大きい子の方をあげましようといいました。その時治は六歳でした。子供をもらうのなら小さい方がよい、大きいと物事もわかり何でも知つているからほしくないと思つていました。しかし藤井治の母親は、この子を救つて下さいと頼みました。そういうことで私たちはこの子をもらつて帰つてきたのです。その時藤井治の母親は三〇歳余りのようでした。

家に来たときは骨と皮の状態だつたのですが、気候も暖かくなり、中国語も少しずつ教え、少ししやべれるようになると、中庭に出て近所の子供と遊ぶようになりました。が、近所の子供たちはみな治を日本人と呼んでいました。(後略)」というのである。

王浜福の職業はトラックを用いる運送業若しくはトラックの運転手であつた模様であるが、同人には父母がおり、また先妻があつたが、昭和二五年頃先妻と別れて後妻を迎え、後妻との間に一男三女をもうけた。

申立人が王家に移つてからの記憶として、当初は言葉(中国語)がわからず、養父等から言葉を教えられたこと、小学校入学以前近所の子供と遊んでいる折にけんかになると「小日本鬼子」(日本人の子であることをののしるの意であるという。)と言われていじめられたこと、小学校入学後学友は皆申立人を日本人と言つていたこと等の記憶がある。

申立人は昭和二四年○○○小学校入学(申立人によると中国における学齢は八歳くらいであつたが、現実には守られていなかつたという。)、昭和二九年○○○○第七中学校入学(申立人によると、小学校は事情があつて五年間しか通学しなかつたという。)、昭和三二年同校を卒業し、その後農業、工員などをしてきた。昭和三二年一七歳の頃王家でおもしろくないことがあり、三日位家出をしたことがあるが、家に帰つてみると、養父が養母などに「利民は日本人に日本へ連れて帰つてもらつたのだろう」と話していたこともあつた。

3 かくして申立人は次第に日本人であることの自覚を強め、実の父母を捜したいと切望するようになり、昭和四一年八月から日本の厚生省あてに(孤児)身元調査を求める書簡を寄せたが、右の際には、申立人の境遇が伝え聞いた埼玉県出身の後藤洋なる者のそれに似ているとして、後藤洋の名を用いた。また翌四二年には中国政府から中国籍に関する「改籍」(申立人の陳述書のまま)の許可を得て外国人居留証明を取得するに至つた。

4 かかるところ、昭和四二、三年頃申立人の中国における同僚で先に日本に帰国した岡田清一から、高田和乃が藤井治という子を捜している旨及びその特徴を知らせてきたのであるが、申立人は右藤井治の境遇が自分の境遇と似ているのではないかと考え、右岡田の仲介で高田との文通を開始し、以後昭和四九年に申立人が帰国するまで六年余にわたつて文通が続けられ、高田は申立人を藤井治であると信じ、申立人もまたそう信ずるに至つた。

この間申立人は昭和四三年頃一度結婚して一児をもうけたが、間もなく妻子をともに失ない、その後昭和四八年一月一八日に現在の妻江桂恵(昭和一五年五月四日生同人も日本名山本まり子なる日本人であるとして当庁に就籍許可の申立をなし、現在係属中である。)と中国の方式により再婚し、同女には先夫との間に江恵陽なる子があつたが、更に申立人は同女との間に江○(または江愛。昭和四五年二月四日生)及び忠一(昭和四八年一一月二八日生)の二児をもうけた。

5 かくして、申立人は昭和四九年一二月三日妻子と共に日本に帰り、高田和乃及びその子(藤井治の姉)らと対面し、高田の居住する北海道○○郡○○町に居住するに至つたが、その後間もなく高田の側で申立人は藤井治でないと主張するようになつた。

申立人は、昭和五〇年三月上京して日本語の習得及び職業訓練を受けることとなり、また昭和五〇年一二月一一日東京都○○区長あてに、自己を藤井治であるとして江桂恵との婚姻届(後に中国の方式による婚姻の報告的届出に訂正)、江○(江愛ともいう。)の認知届並びに長男忠一の出生届をなし、それぞれ藤井治の戸籍に記載されるに至つたが、高田和乃は申立人は藤井治ではなく、右各記載は錯誤によるものであるとして、昭和五一年九月秋田家庭裁判所本荘支部に戸籍訂正許可の申立をなし、同事件は移送により釧路家庭裁判所帯広支部を経て当庁に継続するに至つた(昭和五二年(家)第六五六二号)。

6 申立人は、昭和五二年一一月八日本件就籍許可の申立を行ない、前記戸籍訂正許可申立事件と並行して審理が行なわれてきたが、この間申立人は養父王浜福らに申立人の幼時の状況に関する証明を求めたところ、本項冒頭(1)中に掲げた各証明書が申立人の許に送付された。

以上の事実が認められる。

二  申立人が高田和乃の子たる藤井治と同一人であるか否かについて

ところで、申立人と高田和乃の子たる藤井治との同一性については、年齢など比較的近似する点もないではないが、前掲の各資料によると、預けられた相手方たる中国人の住所氏名、預けられた日時、預けられた際の状況等が異なること、父の行動その他預けられるまでの状況が異なること、申立人には凍傷痕がないこと、血液型、体格等が相違する模様であること等が明らかであり、これら種々の点から見て同一人とはいい難く、別人と認むべきであると判明したものである。

三  申立人の国籍について

就籍を許可するためには、申立人が日本国籍を有することが証明されなければならない。そこで、まずこの点について検討する。

当時の国籍法(明治三二年法律第六六号)によると、子が日本国籍を取得するためには、出生の時父が日本人であるか、父が知れないときは母が日本人であることを要し、父母が共に知れないときは日本において生まれたものであることが要件であつたが、また、外国人たる子も日本人たる父に認知されたときは日本国籍を取得することとされていた。

ところで、本件において申立人の父母についてはいずれもその氏名、本籍等を明らかにすることができないのであるが、前認定の事実からすると、申立人の父も母も日本から満州に渡つた日本人であることは明らかである。もつとも、申立人出生当時父母が婚姻していたか、あるいは婚姻していないが、生前認知をしたものであるかは現段階においてこれを明らかにすることはできないから出生当時父が法律上の父であつたか否かは明らかでないけれども、仮に法律上の父がないとしても母が日本人であつたことは疑いないと解されるから、結局申立人は日本人を父又は母として出生したものであつて日本国籍を有すると認むべきである。そして、その後申立人が日本国籍を喪失したとは認められない。

したがつて、申立人は現在日本国籍を有すると認められる(なお、申立人の出生地については、申立人が自己には五つの種痘痕があるので、朝鮮で出生したものではないかと供述するのみで、右以外に資料はなく、これを確定することができない。)。

四  申立人の本籍の存否について

前認定のとおり申立人が藤井治でないことは明らかであるから、藤井治の戸籍が申立人の戸籍でないことは当然である。ところで、申立人は前記のとおり日本人として出生し、その後中国に渡つたものであるから、申立人については、いずれかの地に戸籍が存在するのではないかとも思われるが、今日までしばしば申立人に関する報道が行なわれたにもかかわらず、事情を知悉する者は現れず、また、当裁判所の調査によるも結局申立人の本籍を知ることができない。

そうとすれば、本件就籍を許可し、申立人につき新戸籍を編製するのほかはないと思料される。

五  就籍事項について

1  本籍

就籍により新たに編製すべき戸籍の本籍については申立人の希望によつて決すべきところ、申立人は現住所地を希望しているので、これによる。また、申立人は地番でなく、街区符号による本籍の表示を希望しているので、東京都○○区○○×丁目×番とすべきである。

2  氏名

次に申立人の氏名であるが、申立人は第一次的には「藤井治」を称することを希望し、第二次的にそれが不適当な場合には「藤井洋治」と称することを希望している。ところで、「藤井治」は言うまでもなく高田和乃の子の氏名と同一であつて、同人とは別人であることが明らかになつた今日においてこれを氏名とすることは不相当と考えられるし、高田和乃ら治の親族も賛意を表さないであろうと推測され、また真実の藤井治が帰国する日のことも考慮しなければならない。

もつとも、申立人は高田和乃との文通をしていた頃から藤井治の氏名を用いており、昭和四九年一二月に帰国して日本において右の氏名を用いるようになつてからも既に三年余にわたつて右の氏名で社会に生活してきたわけである。そうとすれば、申立人が高田和乃の子とは別人格であるとしても、「藤井治」ないしこれに近い氏名を用いるについては相当の利益と合理性があることも否定しえないところである。

これらの事情を勘案するとき、申立人が第一次的に希望する「藤井治」は不適当であるが、第二次的に希望している「藤井洋治」についてはこれを不相当とすべき事由を見出すことができないから、当裁判所は申立人が「藤井洋治」として就籍することを許可することとする。

3  出生年月日

申立人は自己の出生年月日について明確な記憶ないし認識を有しない如くである。ところで、前認定の事実及び本件の資料を総合すると、申立人は昭和一五年若しくは昭和一六年の出生と推定されるところ、一九五七年(昭和三二年)七月一〇日付の申立人の中学校卒業証書には「現年十七{山夕}」の記載が見え、右は満年齢を表示したものと理解されるので昭和一四年ないし一五年生れとなり、前記事実ないし資料とあわせ考えるときは、現段階の資料による限り昭和一五年である蓋然性が最も高いということができる。そこで、申立人の出生の年は昭和一五年と認定しうるが、月及び日についてはこれを推認すべき資料すらほとんど得られないので、現段階では不詳とせざるをえない。

よつて、当裁判所としては、申立人がその出生年月日を昭和一五年以下不詳として就籍を許可するのほかはないと思料される。

4  父母及び続柄

前述したとおり、申立人の父母の氏名及び続柄はこれを明らかにすることができない。もつとも申立人の性別が男であることは明白であり、嫡出子であること及び第何子であることの明確な認定をなしえない以上、続柄欄には便宜「男」と記載すべきものと思料する。

六  結論

以上のとおりであるから、本件申立を認容して申立人の就籍を許可すべく、主文のとおり審判する。

(家事審判官 岩井俊)

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